Kiplingのバラッド詩「三艘のオットセイ狩猟船の唄」をめぐって

1892年(明治25)キプリングが、二回目の日本訪問の折、タイムズ紙とは別に、アメリカのニューヨーク・サン紙に送った紀行第5信は、同年11 月に掲載された。その記事には、表記のバラッド詩のはじめの13行がついていた。残り全詩は同年12月ロンドンの『ペルメル・マガジン』に掲載された。そ れより後に『アドヴァタイザー』紙に転載されたものが、1894年1月25日付バジル・ホール・チェンバレンのハーン宛書簡に同封され、ハーンの手に渡っ た。かねてよりキプリングの文才を知っていたハーンは、同年同月30日付の返書に読後感想を書き送っている。

昨夜わたくしは、キプリングの例のバラッドを三回読んで、そのたびにこの詩に新しい驚きを発見しました。かれが地方色と人情あふれる的確な調子をつねに正 確に表現するのは、不思議です。わたくしは横浜のケアリー旅館に滞在していたとき、ちょうどかれの書くような男たちや、アザラシ漁夫たちとおしゃべりした ものです。どちらかと言えばわたくしは海の男や機関士たち―おしなべてそういう荒くれ連中が好きなのです。かれらは素晴らしいことを話してくれますし、そ の話が退屈なことはけっしてないのです。しかし、かれらの話をキプリングのように使いこなすとなれば、かれらとともに労働し、かれらの生活を生きた経験が なければならないのです。わたくしはいつも、かれらの語る物語の一つを作品に仕上げようとしては失敗しています。行動の舞台がわたくしにはあまりに馴染み がなさすぎるのです。(Japanese Letters 4 The Writings of Lafcadio Hearn XVI 113
『ラフカディオ・ハーン著作集』第15巻 恒文社 207 山下宏一訳)

これは、チェンバレンの好意に対するちょっとした感謝の言葉と受け止められるごく短いものであるが、その後に送った手紙ではさらなる驚嘆ぶりと、馴染みの ない用語についての困惑ぶりを率直に述べ、最後にふたたびキプリングに対する称賛で結ぶ長いものである。Elizabeth Bisland編集になる前掲書の59から61ページの手紙がそうである。紙幅の関係で要所, 要所を引用するだけにとどめたい。

読めば読むほどこの詩のすごい迫力に驚かされる。チェンバレンはどうも民衆の言葉を詩に使うのは反対らしいが、ハーンはそんなことは問題ない。キプ リングは100年は持ちこたえられるだろう。作品のあるものは古典となるであろうと激賞する。でもキプリングが使う海事関係の術語がさっぱり分からないと こぼしている。とくにholluschickieとはなんですか?ピー・ヨロ・ヨロと鳴くトンビのことですか?と冗談めかす。分からない言葉があってもそ の言葉の響きがどーんと心に訴えるとも言う。

138行目の And tell the Yoshiwara girls to burn a stick for him.(日本についたら吉原の女に俺のため線香の一本でも上げるよう伝えてくれ)をロティの『お菊さん』全巻をしのぐ一行だと持ち上げる。とかく悪所な どと言われる場所を詩に用いたことが、いつも苦海に身を沈めた女性たちに同情していたハーンにはたまらなく訴えたのであろう。いかにもハーンらしい。

最後に、ただ金儲けのためには、ロシアの警備艇に偽装してまで、他船の獲物を巻き上げてしまう密猟者たちだが、激しい戦いにお互い傷ついた二人の船 長の今はのときの哀感は素晴らしいし、また獲物は仲良く分けよと指示を与えるところは、海の荒くれ男たちも根は善良なところがあるんだ。ハーンはこのよう にこの詩の素晴らしいところを数えあげ、この詩については1冊の本が書けるぐらいだと結ぶ。

あらすじはいたって簡単で、まずノーザンライト号がロシア警備艇を偽装して登場。ついでバルティック号が猟場に着き、オットセイを撲殺、1500枚 の生皮を浜に並べる。ノーザンライト号をロシア警備艇と間違えたバルティック号は逃げる。ノーザンライト号はまんまとその生皮を頂戴するが、もっとうまく 化けたストラルザンド号と船戦となる。首領のノーザンライト号船長トム・ホールとストラルザンド号船長ルーベン・ペインとの相打ちとなる激戦が繰り広げら れるのだ。

このあらすじを語った序詞の部分が始めの13行で、その訳を見本として書いておこう。

はるかはなれた極東の日本の国の港町。
そこは、赤提灯がゆらゆらと、
あらゆる国の船子ども、飲んでは騒ぐ
赤い血通りのジョーの店。
夕べそよ吹く浜風の、運んでくるのは
街のざわめきと
横浜湾の引き潮の音。
ブイの側をざわざわと引いていく潮の音。
ここにもう一軒、人気酒場のシスコ亭、
そこで出るのはまたあの話
秘密の海での秘密の喧嘩沙汰。
バルティック号がノーザンライト号から逃げ、
後からきたストラルザンド号が、その二艘と戦うあの話。

たまたまインターネット上で、愛知県立大学外国語学部の木下郁夫氏の「拿捕、仲裁、オットセイ保護条約」という一文に出会った。以下はそれからの情報である。

「19世紀後半、オットセイの毛皮は高価で売れ、その猟場であるベーリング海を中心に、北太平洋では英米露がきそって猟をおこなった」とこの文は始 まる。そのためオットセイは激減した。だから捕獲競争はますます激化したのだろうと推察される。そこで国家間での協定成立の動きがみられた。1892年の パリ会議で一応の合議にこぎつけたのである。しかしロシアは、米英の動きが脅威で、以後ロシア官憲による外国船拿捕が始まったのだ。キプリングがこのバ ラッドを書いたのは、まさにこうしたオットセイ猟をめぐる国際紛争の最中だったとは、彼のジャーナリストとしての一面を見るようで興味深い。