対談「ハーンとバラッドをめぐって」 司会:山中光義  対談者:光畑隆行 宮原牧子   
日本バラッド協会第7回(2015)会合 (関東学院大学関内メディアセンター:2015年3月28日) 

I. 発表要旨
1. 司会者 山中光義
 ラフカディオ・ハーンは、明治24年の陰暦7月15日から節子と二人で山陰地方の小旅行に出かけた時のことを「日本海の浜辺で」という文章に記しているが、ある夜の夢の中で出雲の女とおぼしきものが「長い歳月(さいげつ)の距(へだた)りを通して来るようなかすかな声でもって」うたい始める。それを聴いているうちに、「ケルトの子守歌のぼんやりした記憶」がよみがえってきたと記している。また、別の場面でハーンが節子から「子供を捨てた父」の出雲民話を聴かされたと言って紹介しているくだりを読むと、わたしはただちに伝承バラッドの「残酷な母」(‘The Cruel Mother’)を思い起こす。この旅行記に言及している辻井喬と鶴岡真弓の対談『ケルトの風に吹かれて』(1994年)は、「西欧の基層」としてのケルトと縄文人の出会いを語り合った名著であるが、わたしどもの企画対談においても、日本におけるバラッド研究の種を蒔いてくれたハーンをめぐって、辻井・鶴岡対談に通底する東西文学の普遍的底流の解読が期待される。

2. 大黒舞と伝承バラッドをつなぐハーンの比較文学的視点 光畑隆行
 岡倉由三郎(1868-1936)編注OLD ENGLISH BALLADSの序文の見出しには「大黒舞」が充てられている。序文の内容は、バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850-1935)の仲介で、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn, 1850-1904)が岡倉に大黒舞の歌詞の下訳を依頼した時の顛末である。大黒舞はハーンの手によって、“Three Popular Ballads”という表題でTransactions of the Asiatic Society of Japan (『日本アジア協会誌』、1894)に発表された。奇しくも大黒舞にまつわるエピソードを発端として、バラッド研究はハーンから岡倉に受け継がれた。“ballad”という語を介してのハーンと岡倉の縁によって、バラッド研究の礎石が日本の地に据えられたのは確かなことである。そしてその表題で注目すべきは、大黒舞が伝承バラッドの範疇に収められた点である。西洋に対する東洋というオリエンタリズムの枠に因われない、ハーン独自の比較文学的視点がそこに見られる。本対談では、西洋と東洋をつなぐ共通の土俵を探るという観点から、ハーンがバラッドとして紹介した日本の物語歌について考えてみたい。さらには、ハーンの日本を題材にした作品へのバラッドの影響の可能性についても、「日本海の浜辺で」の結びの、ケルトの子守唄を口ずさむ、長い黒髪渦巻く女の夢描写に焦点を合わせることによって、言及してみたい。

3. ラフカディオ・ハーンとロセッティのバラッド詩―影なす世界の影なる亡霊たち― 宮原牧子
 科学かぶれの詩を非難し、完全なる詩とは人間の感情を完全に表現すべきであると考えたハーンは、英国詩人Dante Gabriel Rossetti (1828-82)を極めて高く評価していた。東京帝国大学で行われた英文学講義の中で、ハーンはロセッティのバラッド詩を幾編も取り上げ、言葉を尽くしてこれらを賞賛している。一方、『怪談』を中心とするハーンのゴースト・ストーリーには、伝承バラッド的要素のほかにバラッド詩的要素が多分に見られるが、中でも目をひくのはロセッティ作品との共通点である。本対談では、ハーンが日本でのはじめての著作Glimpse of Unfamiliar Japan (1894)中に多用した“shadowy”という言葉をキーワードに両者の作品の共通点を明らかにし、その底流にある共通の文化を探りたい。

II. フロアからのコメント
(1) 貧困等の問題を抱えたハーンのアメリカ時代があった上での、その後の日本におけるハーンがあったという視点も必要ではないか。
(2) アメリカにおけるジャーナリストとしてのハーンという側面を語ってほしかった。“shadowy”という視点でハーンの内面を見るという指摘は大変明快で良かった。(対談後の或る指摘から)
(3) “shadowy”の言葉の意味は、ハーンとロセッティとイエイツそれぞれで違うのではないか。(対談後に再びお話しして)ロセッティの作品が後にイェイツにインスピレーションを与え、世紀末のケルト文芸復興へと繋がったのではないか。

III. 講評  
 伝承バラッドという存在を日本に初めて紹介し、また、ラファエロ前派の詩人D・G・ロセッティという重要なバラッド詩作者を紹介したハーンの東大講義は、その後日本で必ずしもよく理解され、また、評価されてこなかった。その意味で、本対談は重要な意義を持った問題提起となったと思う。ただ、「対談」という形式の難しさと時間的制約から、必ずしも意図するところを十分に伝えることができなかったことが残念である。両対談者の詳細な準備内容は、今後、「研究ノート」のページに発表されてゆく予定である。(文責 山中光義)