騎 士が人知れず死んでいる。三羽のカラスが餌にありつこうとその亡骸を狙っているが、騎士の猟犬は足元に控え、鷹は上空を舞い、カラスたちを近づけない。そ こに子を孕み大きなお腹をした恋人が、雌鹿に変身してやってくる。彼女は鹿の姿のまま騎士の亡骸を背にのせて山の洞穴へと運び、そこに恋人を埋葬する。

伝承バラッド「三羽のカラス」を読むたびに、亡くなった祖母を思い出す。1945年、祖母は山口県新南陽市で七番目の子を身籠っていた。終戦を間近に控えた7月、 それまで医者という職業ゆえに徴兵を免れていた祖父も、とうとう広島へ軍医として赴くことになった。それからたった一ヵ月後、広島に原爆が投下された。 「原爆」も「放射能」も知らなかった祖母は、「広島にもの凄く強力な爆弾が落されたらしい」という話を聞いて、ただ夫の消息を辿るため、山口と広島の県境 まで汽車、その先は徒歩で広島市内に入った。一週間、文字通り山となった死体をひとりひとりひっくり返しては祖父を探した。中にはまだ息のある人もあり、 自分の死を家族に伝えてくれというメッセージをいくつも託されたのだという。小学校に収容された祖父を見つけたとき、祖父は爆撃のショックで記憶を失って いた。それから更に一週間、執念の(という言葉を祖母はつかったのだが、)看病のかいあって記憶を取り戻した祖父を、なんと今度は背中に担ぎ、祖母は六人 の子供の待つ我が家へと夫を連れ帰った。その一ヵ月後、祖父は自宅で息を引きとった。だから祖父は広島の原爆の被害者でありながら、その遺骨は先祖代々の 墓の中にある。

祖 母の武勇伝である。晩年、痴呆が進んだ祖母は、私が孫であることも理解せぬまま何度もこの話をしてくれた。祖母の話を聞きながら、祖母が決して語らないも の、たとえば折り重なる死体が放つ臭いや祖母自身の体力や気力の消耗など、きっと戦争を知らない私には想像の及ばないことばかりなのだろうと思うと、涙を 流すことが憚られた。そして「三羽のカラス」でうたわれた、背中に恋人の亡骸をのせて歩む美しい雌鹿の姿を思い浮かべ、時の流れの中で辛く悲しく残酷な事 実を昇華させ、たんたんと昔話を語る祖母に、バラッドのうたい手たちの精神を重ね、改めてバラッドの世界がまさにうそ偽りのない民衆のものなのだと思っ た。

ところが、感動するわたしを尻目に祖母の話はもう少し続く。

話 には必ずオチがついていた。オチは二通り。「でもねぇ、ちっともハンサムじゃなかったの。」「だからねぇ、まっちゃんの頭が悪いのは放射能のせいなの。」 まっちゃんとは勿論武勇伝の中で祖母のお腹の中にいたおじの呼び名である。八十九歳の祖母が口にするブラックジョーク・・・。笑えない・・・。笑えばあま りに不謹慎に思われて。戦争を知らない世代の私たちには、戦争の話をしながら笑うことは難しい。しかしオチをつけながら祖母はこちらを見て、まるでそのオ チがウケたのかどうか確かめるように、ニコニコ笑う。『なんてタフなんだ・・・』と言葉にはせず、「そんなことないでしょ」と一緒に笑い、「二羽のから す」を思い出す。

「二 羽のからす」では、騎士の亡骸を守ってくれるべき猟犬も犬も彼を見捨て、恋人は別の男に首ったけ、亡骸は誰も知らぬ場所で朽ち果ててゆくのを待つばかり。 「肉を剥がれりゃ 白い骨に/風がいつまでも吹きつける」という最終行は、残酷でありながらもこれこそがこの世の無常と人々を妙に納得させる力をもってい る。まるでパラレルワールドである。マザーウェルは「二羽のからす」が「三羽のカラス」の元歌であると指摘している。もしそうであるならば、バラッドの精 神には先にこの皮肉な無常観ありき、なのである。戦いの時代を生き抜いた精神はなんともタフである。祖母の強烈な「放射能オチ」を思い出すたび、人生とは そんなものと笑うからすの視点もまた民衆の真実なのだと納得せずにはいられない。

チャイルドは「二羽のからす」についてマザーウェルとは異なり、「元歌(三羽のカラス)と対立関係をなす版で、皮肉な立場を表している」と指摘している。 「三羽のカラス」と「二羽のからす」とは、うたの内容からして確かに対立関係にある。一方は美しく、一方は冷たく、戦いの一場面を切り取ってみせる。しか し、どちらのうたも民衆の本当の心である以上、その根底の精神はなにも「対立」などしていないのではなかろうか。一民衆であった祖母もまた、事実を昇華し できごとを美しく語ることも、そこに皮肉な笑いを込めることも、軽々と同時にやってのけたのだから。