櫻井先生の思い出              桝井 幹生

 毎年年賀状を頂いているのに、今年は来なかった。そして先日京都新聞紙上で先生の訃報に接した。「4月14日前に脳梗塞のため死去、73歳」という書き出しであった。
 お目にかかったのはたったの2回。すべてメールのやりとりであった。CDRに保存したが、5枚を数え、合計すると500通強にもなった。メール第1号は、先生からのもので、2005(平成17)年11月19日付である。当時筆者が所属していた日本カレドニア学会のCALEDONIA  32  (2004)に発表した拙論「ハーンの『残酷な母』の出典について」を読まれた先生が、ハーンが選んだヴァージョンの音声資料をご教示くださったのが最初の‘出会い’であった。それから約10年どんなことを語り合ったのであろうか。
 アメリカ、イングランド、スコットランド、アイルランドなど英語圏の民謡が中心だった。わけてもロバート・バーンズに関する文献とか音声資料(CDなどの情報)などのやりとりが主な内容であった。
 たとえば、ジーン・リッチーというアメリカ民謡界の大御所もしばしば話題に上った。先生はMudcatというサイトにもしばしば投稿しておられ、リッチーは存命中KYTRADのペンネームで書いていると教えていただいた。リッチーの京都公演を聴きに行ったときの話をお返しに書いたこともあった。
 彼女のレパトリーにある「みなし児」の話をしたところ、「ああ、あの『兄さん寒かろう。お前寒かろう』の話ですね」と、「鳥取のふとん」というハーンが作品に引用した伝説が先生の口から出た。
 当時筆者が京都でやっていた「小泉八雲に親しむ会」のために、ハーンがアメリカ時代に書いたとされる新聞記事「民衆の音楽」に列挙されたおびただしい数の歌を棚卸ししてくださった。
 筆者が退職後手がけたアメリカ女流作家ヘレーン・ハンフの翻訳の仕事も心にかけてくださり、『チャリング・クロス街84番地』の劇団昴の公演のポスターと招待券を送っていただいたこともあった。2006(平成18)年4月のある日、駒込吉祥寺近くの劇場で観てきた。
 先生と初めてお会いしたのは、2009(平成21)年1月、青山のニッカウイスキーで行われたバーンズ・ナイト・イブの集まりであった。直後いただいたメールには、「とても初対面とは思われなかった」とあった。筆者も同感であった。
 バーンズ作あるいは、その編纂に関与したと伝えられる春歌集にも造詣が深く、「『カレドニアの陽気なミューズたち』の諸版について」というご論考もある。(一橋論叢)筆者も文献や音声資料から拙訳を試みたことがある。「先生の訳に私の注釈をつけて出版しませんか」と本気とも冗談ともつかないご提案を受けたことがある。その話は実現に至らず立ち消えになってしまった。書きかけの草稿は手元に残っている。先生もバックアップしておられることと思われる。
 最後にお会いしたのは、2013(平成25)年秋、同志社大学で行われた日本カレドニア学会の席上であった。会の後、京都御所の西側にあった懇親会場まで一緒に歩いた。ヘビー・スモーカーの筆者は玄関で一服やると、先生も「それじゃ私も」とポケットから何かハード・ボックスのケースより一本取り出し火をつけられた。この時先生も愛煙家だったのだと、更に親しさが増した一瞬だった。
 唱歌「仰げば尊し」の原曲を発見された先生は、にわかに脚光を浴びることとなった。「仰げば尊し わが師の恩」という商売上こそばゆいような文句もなければ、「身をたて名をあげ やよはげめよ」なんて立身出世主義もない、「死んで神の前で会おう」なんていう抹香くさい賛美歌である。
 「散る櫻 残る櫻も 散る櫻」と言うじゃありませんか、先生。あの世じゃあの無粋な禁煙の標識もないでしょうから、煙草をくゆらせつつ、酒を飲み、心ゆくまで歌の話でもしましょうよ。